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まちがった自粛と正しい危機感

『AERA』に謝らせちゃったモンスターの話の続きというか、関連した話題。

自粛するなって話があちこちで起こっていて、それはぼくも同感なのですが、おそらく自粛を決めた側もほんとはやりたいはずなんですよね。
だけど実施することで「不謹慎」コメントが殺到するのがわかっているから、やむなく自粛しているというのがほんとのところだと思います。

象徴的なのは政治家のジャンパー姿でしょう。
けっきょくあれは普段どおりスーツで記者会見することで「こんな状況で被災地に行く気もないのか」と責め立てられることを想定して(というかあらかじめ防ぐために)着ているだけで、なんの意味もないのは当人もわかってるはず。
もっとも着たら着たで「パフォーマンスやめろ」とか「汚れてないきれいなジャンパーでなめてるのか」と怒られるのですが。
(そのうち汚し加工とかするかもしれませんね)

政府関係者として支援や復興のために現地に行くべき人はいるし、行くべきタイミングもあります。それを冷静に見極められているのかという疑問はありますが、とにかく全員が行く必要はないし、全員がジャンパーを着る意味もない。
だけど予防線として着ざるをえないというのがじっさいのところだと思います。馬鹿馬鹿しいですね。

もっとも襟を立てるのはさすがにどうかと思うけど(寒かったのかな)。

何をやっても批判する人はいるんです。

そして最悪なのは自粛しても批判する人たちが増えているということなんですね。「不謹慎」と言われたくないから営業を自粛すれば、「経済を回せ」と怒られる。
さっきのジャンパーを着ても脱いでも怒られるのと同じで、じゃあどうすりゃいいんだよというのが矢面に立たされている人の本音じゃないでしょうか。

「ヤバいですよ」と言えば「不安を煽るな」と怒られ、「大丈夫です」と言えば「ほんとはどうなんだ?」と信じてもらえず追求される。
この状態がもう2週間も続いていて、日本中が疲れきっていますね。

いま必要なのは、むだに不安を煽ることでもなく、根拠のない楽観を広めることでもなく「正しい危機感」です。
そのためには正確な情報が必要なんだけど、チェーンメールが飛び交ったり、大人もこぞって水を買い占めてる状況を見る限り、ぜんぜん届いてない。そもそも出してないのもあるし。

たとえば深夜の節電。たとえば関西の節電。
節電そのものは大事なことだし、日本中のどこでも常にやればいいんだけど、いまの関東の電力不足の対策という観点では意味がないわけですよね。ピークタイムの需要を引き下げればいいのであって(つまり供給可能電力量に抑える)、深夜帯ならいまでも十分まかなえてるわけで、コンビニなんかはむしろ照明をちゃんとつけてくれたほうが防犯対策にもなるんです。クルマで走っててもコンビニがぜんぜんわかんないし、あれは良くないと思う。

また、さっきテレビ(ウェークアップ!ぷらす)を見てたら、大阪では道頓堀のグリコの看板が照明を落としているみたいだけど、関西では節電する必要がまったくないわけです。

20110326091606

この記事によると震災発生翌日の12日にはもう消灯してるのですが、ぼくは「不謹慎」を怖れての自粛だろうと思うんですよね。じっさいあっちではチェーンメールが飛び交ってたので、もし消灯してなかったら電話が鳴り止まなかったでしょう。

翌13日に橋下知事が「節電しなくていいよ」と発表してるんだけど(これ、ツイッターだけじゃなくテレビを通じても出してるんだよね?)、いまも看板は消灯されてる。

節電について。関西電力とも協議しました。関西においては、これまでの節電努力以上に、過度に節電する必要はありません。技術上の観点から、関西から関東・東北に送電できる量には限りがあり、今の関西電力の供給能力からすると、皆さんの節電がなくても、この限界量まではきちん送電できます。Sun Mar 13 10:17:34 via ついっぷる/twipple

こういうのはある種の象徴となっているので、率先して再点灯して節電の意味がないことを伝えるとともに、関西はこれまでどおり経済活動を続ける(過度に消費を加速する必要はない)ことをメッセージとして発信してほしいですね。

いまの政府や東電の会見、さらにはそれを伝えるマスコミの状況を見ると、本当にすべての情報が開示されてるとはとても思えないんだけど、とはいえ上記のような情報すら多くの市民には届いてない。
(もっというとマスコミと広告費の構図と同じで、大学の先生たちも東電から研究費をもらってる人が多いので、どっち寄りのコメントをしているかを意識しておく必要がある)
これが水の問題、野菜の問題にも起こっていて、いわゆる風評被害になるわけですが、ぼくらはせめて自分の身近な人たちには正しい情報を広めていかないといけません。

ぼくはいまの状況はけっして「大丈夫」ではないと思います。
ただ、引っ越しを当初の予定より早めるほど焦ってもいません(ただし、それは住んでる場所が江ノ島だからです)。

新聞やテレビだけ見てても不安になるし、ネットだけ見ててもデマに振り回されちゃいます。こんなブログ読んでないで――とまでは言わないけど(読んでくださってありがとうございます)、できるだけたくさんの、いろんな立場(正確には利害関係者)が発する情報を集めて、自分で判断しましょう。

リテラシーってのは発信者の利害を推測しながら情報を扱う(受け取り、判断する)ことがスタートです。

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コメント(26件)[コメントだけのRSS]

『AERA』表紙批判側の者ですが(笑)、「正しい危機感」を知る、感じることが大切、という河野さんの論調には大きく同意します。
『AERA』表紙については、危機感を感じさせる以上に、不安煽りの領域に達している(そしてそれが子供たちにも波及する)と思ったので否定的なだけで。あの時点での「表紙」だけならやっぱりポストですね、僕は。
#中身のジャーナリズムについてはポストも「おいおい」と思えるところもありましたが(苦笑)。まあ「買うという行動」(450円)くらいの価値は表紙にはありました、僕には。

僕自身「正しい危機感を伝える、そして感じることが大切」と分かっていない大人が大半である、という現状認識に立脚しています。ある意味情報の受け手である日本国民をナメてます(悪く言えば)。でも現状そうなんだから、その人たちに寄り添いながら変えるにはどうすればいいか?を考えながら、メディアは言を発するべきだと思うんです。あと自らの発信情報が影響する大きさや対象カテゴリを常に意識しながら。

多分「河野さんのブログ」では「正しい危機感が必要」と「述べる」のが(外からの意見で恐縮ですが)最も良いかと思います。「それが必要だよね」と感じるレベルまで達する層が読者として多いでしょうから。きっと。
一方、そのレベルまで達しない層にはいくら「正しい危機感が大切だ」と言っても、多分見えていない(苦笑)。見えていない人自身は勝手にすればいいと思うんですが、見えていない人に影響を受ける、自らの努力では克服できないところ(年齢や地域など)にいる情報弱者に対して配慮したいですし、そんな人たちまで影響を及ぼそうとするリテラシーのない大人がほんとに困ったちゃんだな、と思っている次第です。

AERA表紙にかこつけて、これまでのAERA批判に「強い口調」でつなげる人も違うし、AERA批判への批判として、「東京からすぐ逃げろ、ということを伝えたAERAのどこが悪いんだ」に固執する人もまた違います。僕のブログには両方の意見がきました(苦笑)。難しいですね。

大人はほっといて、僕は子供たちに、情報の正しい受け方を伝えていきたいと思っています。「すべてを疑う」ことからじゃないと逆に、人を信頼する、信頼する目を養う、ってこともできない、って感覚を植えつけたいな、と。

寺西さんがおっしゃってることはわからなくはないのですが、『AERA』については批判されるいわれはないと思います。
より正確に言えば、メディアは常に監視され批判されるべきなのですが、今回の表紙の一件については「度を越えている」と感じました。

たとえば『週刊ポスト』については、ぼく自身が火付け役になっちゃったのもありますが、報じている内容、また中吊りにも掲載された特集のタイトルを多くの方が批判していたはずなのに、すでに風化していますね。

どう考えても、これって使った写真だけでの判断だと思うんです。

ちなみにぼくも多くの国民は、脊髄反射してしまうと感じています。だけど、そう言っているみなさんが同じように脊髄反射で批判をし、編集長のアカウントを晒し上げ、謝罪させるというのはモンスターでしかありません。
ツイッターが暴力装置になっていると感じます。

不安を煽ることが問題なのであれば、なぜ他のメディアを同じように批判しないのでしょうか?
風評被害に加担しているメディアはたくさんあるのでは?

子どものことを考えるなら、『AERA』の表紙よりもテレビのほうがよっぽど影響を与えていると思います。

着ても脱いでも批判され、実施しても自粛しても批判されるのであれば、可能な範囲でこれまで通りにすればいいというのが、恐らく正しい方向なのだろうなと思っています。
その上で、しなくてはならないことに対してはきっちりと対応する。そういうことなんだろうなと思っています。

ムムリクさん、コメントありがとうございます。

そうですね。ただ現状は自粛したほうが被害は少ないと思います(もちろんそれがいいことだとは思わないけど)。

こういう状況では感情論で行動する人のほうが多数を占めるので、いまやらなきゃいけないことは正確な事実(情報)の徹底なんでしょうね。
多数を逆転させないと、実施にはつながらないので。

確かに、現状では自粛しておくのが日本という社会においては特に無難なのでしょうね。あからさまに考え直したほうがという(たとえば先のセリーグの問題?)場合はもちろんでしょうけれど、程度問題で対応できるようであれば、本当はよいのかなあとは思うのですが、確かにそういう空気にはないのかもしれませんね。

セ・リーグの問題というか、ナベツネの問題は、彼が多くの国民並みに無知だったんでしょう。そしてさらに空気が読めないと。

「意味のない自粛」をやめるべきってことですね。

あちこち&コメント遅くなりすいません。
自分のブログでもまとめようと思っているうちに時間が流れ…力不足でごめんなさい。

何度かこのブログ&自分のブログを読み返し、僕が理解する範囲における、河野さんとの捉え方(感覚、という方が正確かもしれません)の違いは、「表紙まで含めて“メディア”と捉え、“メディア”総体として(必要があるものは)批判されるべき」なのか、それとも「キャッチーな場所の使い方(つまり「広告宣伝」)として批判されるべき」というところなのかなあ、と思いました。
自分は後者で、かつ、「キャッチーな部分は購買行動その他にかなり影響する」と半ば無意識的に思っているから「買わない」(けど来週号は買うかもしれない)というブログになりました。

確かに、使った写真や言葉だけで今回は批判されたと思うのですが、「使った写真や言葉だけで購買行動に大きく影響する」部分という認知は、恐らくは編集部側にあったと思われますから(これまでのAERAがキャッチコピーを大切にしていたり、騒動後の姿勢を見る限りでの推測において)、その部分を売主都合で不安煽りに使った、という視点において批判されても当然ですし、“批判の数”において「行きすぎ」とも思いません。
ただ、AERA総体として批判する意見には与しませんし(その逆にも与しません)、そういう意見が自分の見る限り結構あったと感じてはいます。が、キャッチだけでそこまで影響することがあるのは、広告宣伝上の覚悟として常になければいけないとも思います。

だから今回の騒動を、僕がAERAの中の人であれば、真摯に受け止めますし、会社判断で「謝れ」となったら、「~の意図はなく」という文章なしで「本当にごめんなさい」と表明すると思います。会社判断抜きで自分に決定決断が委ねられれば、(危険認知を最優先に伝えたかった意図で冊子を作った、という前提であれば)多分謝りません。こればかりは仮説の話なので、強い意見として表するつもりもないですが。


「表紙がキャッチーに使われるものであり、瞬間的な感情を大人に植えつける」という前提に立てば、AERAの表紙の子供への影響は、あの表紙を直接見た子供が、ではなく、あの表紙を見た大人が家に帰って表面的な言葉で子供に伝播させる、これを懸念するのです。直接的な中吊り等の影響を指摘されている方(藤川大祐先生など)もいらっしゃいまし、その影響も僕は懸念するのですが、それ以上に、表紙から大人を介し子供に言葉で伝える際に、TV以上に「煽り」の部分が表紙にあると捉えてしまいますね。こればかりは感覚論ですが。

寺西さん、コメントありがとうございます。
もしこれまでに、そしてこれからも『AERA』以外のメディアに対して同じようにみんなが声を荒げるならぼくは何も言いません。
(ま、その行為そのものは感心しませんけどね)
どうもそうではないから、ただの祭りでしかないように見えるから、ひどいと言ってます。

ぼくはこんなので本来、詫びる必要なんてないと思うし、にもかかわらず詫びねばならない状況を作ったこのソーシャルメディアの暴力性に対しては、非常に危険性を感じています。じつにまずいと思います。

「表現の自由」を振りかざし始めるとそれはそれでややこしいのですが、この『AERA』の表紙(と中吊り)はそこまで非難されるようなレベルのものではないですよ。

ま、そういう感覚の差を社会全体でどうやってコンセンサスをとるかということをぼくらは考えていかなきゃいけないのですが、それがああいうチンピラが殴りこみをかけるような行動だとしたらあまりに情けないと思います。

河野さん、たびたび有難うございます。
河野さんのご指摘のポイント、僕なりに理解したつもりです。

今週号のAERAは買いました。
編集後記の欄と思えるところに、ネットに出たお詫び文章と同じものが掲載されていました。
あと、野田秀樹の「ひつまぶし」が、前号のAERA表紙と本文に違和感を覚え、突然ですが連載終了します、という名の最後の連載文が掲載されていました。

上記や今号のAERA全体をずざざと眺め、これから僕はAERAを「読み物としてためになる」認識より「娯楽として」の認識で捉えなきゃな、と思いました。
もちろん、娯楽として購入することもあります。
#AERAのあり方に批判的なわけではありません(それはAERA側が決めること)。僕自身の認識の変化があったという事実を述べただけです。念のため…

>寺西さん
野田秀樹のくだりはそもそも不要だとは思いますが(だからツイッターでの暴動が正当化されるわけでもないわけで)、野田さんが自分で「やってられんわ」と思って終了したのか、それともソーシャルメディアの騒ぎを見聞きして「空気を読んで」終わることにしたのかは興味がありますね。
後者の可能性もあるかなとぼくは感じました。

この記事によると、野田さん自らの行動っぽいですね。

アエラの表紙批判で連載打ち切り (産経新聞) - Yahoo!ニュース
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110329-00000100-san-soci

あ、すいません、本ブログに関する直接のコメント!?は、先のコメント書き出し2行で終了しています。
その後の今週号の下りは、「表紙」ではなく「AERA」自体への購買行動と中身がどうだったかの活動報告です(笑)
書き方が悪かったですね、ごめんなさい。

野田さんの記事は日経の社会面にも載っていましたよ。これは日経の意図のようなものも感じたのですが(苦笑)


僕は前号の表紙を批判する声がいろいろ挙がった(「暴徒化した連中の声」がなくても「おいおい」と感じる方の声、と捉えて戴ければ、と)ことよりも、野田さんの行動がニュースになることの方が違和感感じますね。
こっちの方がよほど陰湿ないじめっぽいです。ま、感じ方ですけど。。。

> 野田さんの行動がニュースになることの方が違和感感じますね。

同感です。テレビ局関係者の不祥事も他局のときはこぞって取り上げて、自局のときはさらっと流すような連中ですし、とてもジャーナリズムなんてのは存在してるように見えません。

当然、野田秀樹に対しても簡単に印象操作できるので、彼の行動を子どもじみた行為と批判するキャンペーンだって張れるわけですし、影響力を乱用しているのはどっちもどっちですね。

何度も、かつ、また本文とちょろっとしか関係していない話ですいません(苦笑)

『ウェブはバカと暇人のもの』今さらながら読みました(ええっ!寺西、読んでなかったの…といろんな知人に言われそう。笑)。
河野さんの「ツイッターが暴力装置」って言う言葉がどうも、何を真意でいっているのか腑に落ちないところ(もやもやが残るところ、とでも申しますか)があったんですが、スッキリしました(^^

難しいなあ、ネットとの向き合い方って。ツイッターの感情的な(と受け手から見てとれる)発言は少し抑えないといけないなあ、というのがイマココ。

単なる報告でコメント使ってしまいました。。。すいません。

いい本ですよw>『ウェブはバカと暇人のもの』

「反論できる」というのはネットのいいことだと思います。とりわけここ数年のユーザー増加(とそれに伴う影響力・伝播力の拡大)は一部のメディアに対抗するには貴重な武器だと思います。
(いわれない中傷にタレントであれ政治家であれ個人であれ企業であれ反論できるようになったのはほんとに素晴らしい)

一方で「自分で考えない、自分で判断しない」人たちが常に多数派を占めているという現実もきちんと踏まえるべきだし、(必要以上に空気を読む)彼らが暴徒と化す危険性もしっかり認めるべきでしょうね。

>いい本ですよw>『ウェブはバカと暇人のもの』

『そんなんじゃクチコミしないよ』が紹介されているから、と見た(笑)


ご指摘、深く同意です。僕自身、キチンと言いたいことをキチンとブログ・ツイッターで伝え(リーマンとして言いにくいことでも。苦笑)、そのことで読者が味方してくれて、会社の中での(いい意味での)影響力を持てるようになり、社員や管理職の思考の出発がユーザー目線でより考えられるようになったことには、(自分で言うのもなんですが)貢献していると思っていますから。

でも「言いにくい意見」は確かに「自分で考えない」人が感情的に賛成・反対しやすいものなんですよね。
…と、今、言葉で表現できる自分がいますが、今回の河野さんのやり取りや「バカと~」がなければ表せませんでした。
有難うございました。


何の因果か、このブログを書き
http://www.zkaiblog.com/histaff/36093
の直後に「バカと~」を読み、その後このブログがプチ祭り騒動になっている(苦笑)のを見て、「バカと~」で指摘されている「ネットで叩かれやすい10ヶ条」に結構あたってる、なるほどな…うまく10ヶ条まとめているなあ、と思った次第で。
まあこのブログ、文章力の拙さと、主観と客観が入り混じって、「まとまりのない文章」になっている(←冷静な読者から指摘されました)のも祭りになった一つの理由ですが…(笑)

こっちもいい本ですよw>『そんなんじゃクチコミしないよ』

まあ人は見たいものしか見ないし、聞きたいことしか聞かないし、読みたいことしか読まないので、とりわけそういう傾向の強い人たちが、そういう傾向が強くなる状況で接しているのがネットなんでしょう。

ツイッターで冷静な議論なんかできっこないし、ブログ上でもなかなか難しいです。
とはいえ、だから諦めるってのももったいないので、残念な現実を受け止めつつ、少しずつでも変えていけたらいいなあと思います。

>こっちもいい本ですよw>『そんなんじゃクチコミしないよ』

ええ、とってもいい本で、一度作者の河野さんとやり取りをしたくなりました(w


僕もご指摘の、カエサル言葉(見たいものしか見ない)を信じているクチです。ネットは確かに、そういう傾向が強くなりますね。
でも、だからこそ、「見たいものしか見ない」人に、少しでも考えるキッカケを与えられればなあ、と思っています。
ネットもその手段の1つですが、僕は「教育」という自分の生業において。

目的が教えられる側にとっても明確なものについて、足りない知識を教えていくことって、教育の本質ではないんですよね。
本人が気づいていないことに気づかせ発展させることが教育ですから。
(だから実は教育って、強制ではないと成り立たない側面があります。今の僕の生業は、自己矛盾を抱えているんですよね…苦笑)

教育論はややこしくなるんですけどw

けっきょく「足りない」とか「気づくべきだけど気づいてない」ってのは、絶対的な正解があることを前提にしているので(ようは「これはわかっとくべきでしょ」ということの正当性は誰が保証するのかという問題)なかなか難しいですよね。

逆に言えば、そこさえ握れてれば強制的でもいいわけですし、受験勉強というのは比較的握りやすい特殊ケースなのかも。

人生的な意味での教育になっちゃうと、なかなか教えることができなくなるので。
まあ100%余談というかざれごとですが。

仰るとおりですね。
だから義務教育って、国家戦略なんですよね、内包する性質上そうならざるを得ません。
「ほんとうの正しさ」ではなく「国の向かう方向性」において正しいか正しくないか、が判断尺度。(この善し悪しは別にして)

この意味で、人間教育を施す責任は、ほとんど保護者に委ねられますね。で、保護者が困ったちゃんだと、さあどうするか、という、どんどん問題が難しくなりますね(論でも状況においても)。

保護者以外の第三者が「困ったチャンに育てられた困ったチャン」にできる(人間)教育は、迷惑を被ったときに「迷惑じゃ、ぼけっ」とハッキリその人に伝えることが一番ですかね。
だから、当事者であれば、ハッキリと文句、批判を言おう。
当事者でなければ、余計なこといわんでよろし、と、ネット上でのマナーにいきつきますね。(と、強引にネットに戻るw)

そうですね、だから「国が向こう方向性」を明示しなきゃいけないんですよね。
ただ聞き及ぶ限りの日教組とかの話を聞く限りはこれが壊滅的に残念な状況になってますよね。

で、「迷惑じゃ、ぼけっ」とはっきり言うのは大事なんだけど、きっと多くの人は言えないので難しいですよね。
ぼくは第一に「自分より弱い人間への攻撃に加担しないこと」が大事だと思います。直接的であれ、間接的であれ。ツイッター上でも若者を大人が寄ってたかっていじめるケースを見ますが、あれはやめてほしい。

ただし、これだと『AERA』への攻撃はオッケーになっちゃうのでw、もうひとつのルールがあって、「本気で怒ってないなら騒ぎに便乗するな」と言いたいです。
寺西さんが今回、本気で怒ったならそれでいいですが(そうであることは伝わってます)、多くのユーザーは「叩きたいだけ」でしたね。ああいう祭りに参加することだけが目的のバカはなんとかしないと。

ま、言うは易しですけどね。

現在祭られている寺西につき教育の話はこれ以上自粛します(苦笑)


>「自分より弱い人間への攻撃に加担しないこと」
これ、河野さんがよく仰っていることですよね。すごく共感します。
が、ついついやっちゃうときありますね…(反省)AERAの件もそうですが、AERA対購買層って、圧倒的に購買層が強いから、ああなっちゃう。
もちろん、メディアは個人レベルの批判に晒されるべきところもありますが、「自分は購買層だ」ってことにかこつけて批判するって、メディアと個人の強弱が逆転しちゃうんですよね。。。
(ってことに多くの人が気づいていなくて「無意識」でやっちゃうのかな…)
僕も気をつけます。


AERAの件は、僕が教育を生業にしているのもあって、「あの表紙を見た保護者が脊髄反射的に、かつ短絡的に、なんでも(原発関係のものを)危険、と子どもに伝えるシーンが瞬間的に想起されて、それはないよなあ、と思い、そのイメージが消えずブログにしたためるまで至った」のかなあ、と、振り返って思っています。
たとえば「ほうれん草は(どの地域のものも)食べちゃいけない」と子どもにすぐ伝える保護者っていますからね、残念ながら。。。
もちろんこれ(子どもへの伝達)はAERAのせいではないんですが、このテの脊髄反射を起こす保護者が購買にも食いつきやすいことわかっててあの表紙にしたのも間違いないと思っています。


とりあえず「いま」は、祭られている最中(大分下火になった模様ですが)なので、おとなしくしておきます…(はじめに戻る。笑)

「消費者が強い」というのは勘違いもいいところだと思うんですよね。お金を払えば何をやってもいいとなれば(怖すぎるので)誰も生産しなくなるわけで、やっぱりある程度の尊敬とかやさしさを持って受け止めないと未来がない。

買い占めが起こってるように、大人の判断力がおかしくなっているのは事実としてあります(ま、昔からですが)。
と同時に、それを指摘し、改めるために、誰かを殴るというのもまちがった表現(行動)だとぼくは思うのです。

北風と太陽ではないですが、暴力の連鎖はどこかで止めなきゃいけないわけで。

#おふたりのある意味教育談義に入るのは、なんとも恐縮至極なのではありますが

>「消費者が強い」というのは勘違いもいいところだと思うんですよね

ということについては、かつて販売の現場にいた者として、こんなふうに常に思っていたし、思いたいと感じています。それは、

買う者としては「買わせていただく」、売る側としては「買っていただく」。双方が相手を思いやり、ありがたいと思うことが大切ではないかなと。

「売ってやっている」という驕りでは、店が永続するようなことはないでしょうし、「買ってやっている」みたいな驕りもまた、嫌な客として煙たがられるだけですから。

感謝の気持ちを忘れたくないものですね。

>ムムリクさん
遠慮なく割り込んでくださいw

物事をすぐに勝ち負けにしちゃう人は寂しいと思うのですよね。勝ったり負けたり、もらったり譲ったりするのがほんとの関係なので。

>ムムリクさん
遠慮なく割り込んでくださいw
って、僕がいっちゃいけないか(笑)

元々人類って、狩猟などによる自給自足で生きてきましたよね。
そこから物々交換が始まり、次に貨幣経済へと発展した。

と考えると、売り手と買い手は明らかに「対等」ですよね。
感謝の気持ちを忘れると、社会では生きにくくなると思いますし、感謝の気持ちを忘れない人が幸せな社会であってほしいと思っています。

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